日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »
金曜日は、内輪でのお疲れ様会がありました。
震災後はすっかり心も萎えていて、飲み会に参加するのも「しんどいな…」というのが本音でした。だいぶ前から予定されていたので、欠席するのもなんだしな、なんて迷ったり。
「それはそれ。いっとき忘れて楽しもう!」
私の気分を悟ったのか、声を掛けてくださった方がいました。
ありがとうございます。
今の自分の生活まで、暗くよどんでいても仕方ないものね。
気分を切り替えて、楽しむことも必要ですもんね。
カラオケでは、昭和の懐メロを熱唱してきました。
私の歌声への賞賛は「いやらしい~」 はい。相変わらず'“シルエットロマンス”は情感たっぷりで熱唱してきました。
そして、日曜日の今日は癒しの一日
自分だけのために、心落ち着く有意義な時間を過ごせました。
一人ランチはベトナム料理。
ワンプレートランチに生春巻きと鶏のフォーが付きました。甘いコーヒーが飲みたくなって、練乳たっぷりのベトナムコーヒーも頂いてきました。
その後、職場でお世話になった仲間へのプレゼントを買ったり、新しいマスカラを買ったり。。。
ほんのり甘口のワインに、生の八重桜が入ってる春色のさくらワイン。飲む前に、しばらく飾ってもらいたいくらい綺麗なボトルです。
甘口のお酒が好きな友達が喜んでくれるといいな。
慣れ、って怖いです。
ショッキングな映像に心拍数が上がり、体が震えるほどだったのに。
繰り返し流される悲惨な現場の映像に、慣れてきている自分がいます。
土曜日は、明石の二見でバレーの練習試合がありました。ずっと休みがちだったので、今回9人ギリギリの参加者から外れられませんでした。
ボールを追ってる一瞬は、頭の中は真っ白。仲間とプレー中に笑い声も弾けます。
笑ったの、1週間ぶり。
ほんの一瞬でも、地震の事が頭から離れました。
日曜と祝日は、借りっ放しの韓流DVDをずっと観て、家から一歩も出ずに引きこもり。買い物も家族にお願いして。
現実逃避ができる、この贅沢。
テレビでは、明日の食料を水をガソリンを求め、家族を探す人達がいるのに。
夜八時前に、母の携帯に電話しました(電気は復旧したけどNTTの回線はまだ)。
父の転院で疲れたので、早く寝るとの母に、『うん。早く寝てね、もうお風呂入ったの?』…言いながら、しまった!!と思った時は既に遅く。
「…水出ないもの。10日も入ってないよ…」と疲れきった悲しそうな母の声。
いつもの口癖が出てしまいました。
暖かい部屋で温かい食事をし、ふんだんに水を使え、ゆっくり入浴も出来る。
バレーボールをし、のんびり掃除洗濯。空いた時間にDVD鑑賞。
平和ぼけ、ですね。
眠れない程の心配も葛藤も、確かにあったはずなのに。
忘れてないけど、忘れられないけど。
でも、自分の当たり前の毎日を生きていかないと。
寄り添っていたいと願っていても、同じ温度でいるのは難しい。
自分に出来ること。
探すのも難しいな。
昨日、仙台の妹が両親に会って無事を確認してくれました。
前日には10時間もかけてガソリン探しに奔走したそうです。
病室からは、引っきりなしに離着陸するヘリが見え、談話室の視界の開けた窓からは、燃える十条製紙や水浸しの石巻市外、多賀城市のガスタンク爆発まで見えて、心底恐ろしかったことでしょう。
父は、妹の消息が不明と思い、毎日毎晩布団の中で泣いてたそうです。
緊急治療で手がいっぱいの病院では、放射線治療もストップし、食べて寝るだけで家族を探しにも行けず何も出来ないと、己を責めていたのでしょう(T_T)
妹が病室に行ったときはウトウトしてたらしく、目の周りは涙が乾いた跡だらけ。。。
すがりついて大号泣されたそうです。
その時の様子を電話で聞いた私も号泣でした(T_T)
母は自宅にいました。
家は無傷でした。
大型家具は全て地震対策していたお陰で、あの大地震でも無事でした。
仏壇の花瓶がひっくり返ったくらい。
ホッとしました…
電気と水道は止まってますが、プロパンガスはOKで、反射式の石油ストーブで暖も取れていました。
食料や水は、ご近所の方々が引っきりなしに差し入れしてくれて、母1人では食べきれない程だったらしく、妹は卵を1ダース貰って帰ったとか。
田舎のご近所パワーで、被災した中でも有り難く生活が守られていました。
実家に帰れたら、ご近所にお礼のご挨拶行脚してこなければ。
斜め向の奧さんが、電池少ない中で、携帯使える圏内から、両親の無事の電話をしてくれました。
自分たちも大変なのに、近所の年寄りが独りで被災したのを気の毒がり、沢山の方が助けてくださいました。
あったかい故郷。。。
しかし、悲しい現実も。
高校のバレー友は、両親と娘を失いました(T_T)
会社が流され、車も流され、家は床上浸水。絶望していた娘が4日ぶりに無事見付かった友達も。
次々に知らされる石巻の友達の状況に、ただただ胸を痛め涙が溢れるばかり。
多くは語れませんが、今、被災関係者が私の職場に詰め掛けています。
皆さん身なりもきちんとし冷静ですが、震災での恐怖や悲しみのオーラのような気がすごく、私は動悸が早くなり手が震え、じっとしていられず全く集中力が保てませんでした。
たぶん、私だけ…
共鳴してしまったのだと思います。
明日、職場に行くのが何だかこわいです。また動悸が早くなり、手が震えそうで。
いてもたってもいられない、あの焦りにも似たこわさ。
妹も地震以来殆ど眠れず、4日で2キロ痩せました。遠く離れた私でさえも、このダメージです。
ハード面の復興も急務ですが、心の傷はどうすればいいのでしょうか。
神様。どれだけ人間を試したら赦してくれるんですか(;_;)
今夜のフジテレビで、石巻日赤病院の生中継がありました。
石巻市民病院は水没の被害に遭い、病院としての機能をなさない為、松島・牡鹿・三陸そして石巻の被災重傷者は、5分間隔でヘリで運ばれてきます。
日赤病院の外まで、診療を待つ人の物凄い行列・・・
入院している父の姿を探しても、当然テレビカメラに映るわけもなく。。。父本人とは全く連絡が取れていないので、父は、母と妹の無事を知りません。
安藤キャスターが言うには、明日で入院患者の食糧が底をつくとのこと。。。
母は、地震が起きた夕方までは何とか連絡が取れていましたが、その後は全く音信不通。4日目となる今日は、心身とも疲労のピークに達しているかと思います。
近所に数か所ある避難所の何処にいるのか、自宅にいるのか、ご近所に身を寄せているのか、連絡が取れないので所在は全く不明。命に別条がないので、その点は安心なのですが。。。
仙台の妹が自宅の片づけも終わり、やっと動けるようになったので、父と母に会いに(探しに)行ってくれます。自宅に連れ帰ることになるので、崩れて散乱した家中を片付けるのがだいぶ大変だったようです。
しかし義弟の車は、診療所近くのコインパーキングに停まったまま。パーキングが地震で故障してしまった為、修理に一週間ほどかかり車は出せないとのこと。せっかくガソリンは満タンなのに。。。義弟のお母さんの車を借りて、被災後の雑務に駆け回っていたようですが、ガソリンは既に半分しかない。。。
明日は早朝からガソリンスタンドに並び、ガソリンを確保するそう。万が一、手に入らなければ、仙台から石巻までタクシーを使うかも。。。
妹よ、貴女だけが頼りです。
どうか、両親の安否を確認して、現状から救ってください。
『でも、他の被災者の人たちを前にして、自分の親だけ連れて帰るのは何だか心苦しい』
そうだよね・・・。
妹の言うように、様々な葛藤も生まれてきます。
ズマからも電話がありました。(古い読者さんならご存知の、お騒がせぶっ飛び女王様です)
4度目の結婚をして岩手県花巻市に住んでいますが、地震後に安否確認のメールをしました。メール自体も何年かぶり。
宮城県の渡波町にズマのお父さんが一人で住んでいます。
渡波町は、石巻市と女川町の間にあり、地震後の津波で大きな被害があったのです。テレビのニュースで取り上げられるのは少ないけれど、ネットで確認すると、ほぼ壊滅状態。。。ズマは、花巻市から車でなんとか渡波町までたどりつき、膝まで水に浸かりながら避難したお父さんと無事再会できたそうです。しかし、家はすっかり流されて無くなっていたらしく・・・変わり果てた石巻市にショックを受け、生々しい被害の様子を聞かされて、声を震わせていました。。。お父さんを無事に花巻市まで連れ帰ることが出来ただけでも良かったと。。。
仙台市役所前には、消防車・救急車などの緊急車両が30台以上列を成し、壮観だったそうです。車体には”兵庫県”の文字が。。。妹は、ありがたくて涙が出た・・・と語っていました。
ありがとう!兵庫県!そして救援活動をしてくださる皆様方!
テレビで映る国内外の救援隊や救援物資の運搬作業を見る度、自然に手を合わせています。
何もできない自分が歯がゆいけど、今はプロにお任せするしかないのです。
両親の事は、妹に託しました。
明日からまた気温が低くなり、東北では小雪が舞うかもしれません。一人でも多くの方々が、助けられますように。
先週金曜日の午前中、今現在お世話になってる派遣会社から電話がありました。
仕事の紹介です!
2月の中旬に就職活動を開始した、一番最初のA社を紹介されました。その時は直でアタックしたのですが、面接どころか書類選考で終わり、社会の厳しさを改めて思い知らされたのですが・・・。
派遣枠からの空きがあったらしく、派遣会社の担当さんが私を指名してくれました
これまでにも他所の派遣会社にも登録したり、ネットからも数社エントリーしましたが、鳴かず飛ばず。
ハローワークの求人も、スキルのない自分には敷居が高くてアタックできそうもないところばかり。。。
すっかり気持ちも塞ぎがちな毎日でしたが、就職が決まりそうとなった途端、目の前の霧が晴れたように、心の視界がクリアになりました。
人間って現金なものですね。
その日、今の仕事に関係する民間企業の知人からも、仕事のお誘いがありました。
重なるときは重なるもんですね。
ツキが回ってきた~!と思ってた矢先に、その日、三宮でも地震の揺れが。
自宅で見たテレビの映像にショックを受けました。震源地が東北と知ってから、母と妹の無事を確認できていたので少しは落ち着いていましたが、この先宮城はどうなるんだろうという不安でいたたまれませんでした。
実家の家は倒壊はしなかったようですが、家の様子をほとんど語らない母の様子から(地震当日の夕方まで、なんとか連絡が付いた)、家の中は酷いことになっているのが想像できました。
『父が退院したとしても、絶対に無理はさせられないし、母一人では散乱した家の中を片付けるのは大変。恐怖と心細さで、精神的に不安定になるであろう母の側にいてあげなくてはいけないのでは。この一大事に娘として出来る限りのことをしてあげなくてどうする。』
『A社は就業が4月18日から。もし、それまでに東北への交通機関が復旧したら、実家に帰って出来るだけのことをしてこよう。』
『交通機関の復旧再開のめどが遅れたら、18日の就業まで間に合わない。そうであれば、A社を辞退したほうがいいかも。』
『いっそのこと、就職せずに雇用保険の受給をし、その間に実家の世話をしてこようか。』
『雇用保険の受給終了後、仕事のチャンスはあるんだろうか。』
『私が働かないと、親として大手を振って娘を大学に送り出してやれないのが現状!』
心は千々に乱れました。
滅多にない条件の、私には勿体ない仕事です。
家族は、18日からという余裕があるのなら、実家に帰れるチャンスがあるかもしれないし、せっかくの就職を無駄にすることはない、との意見。
娘には「50前でやっと掴んだ就職でしょう~!?そんなとこ滅多にないよ!働いて。大学行かせて!お母さんが今の宮城に行っても、やれることなんてないんじゃないの!?」露骨に言われました。
親をとるか、仕事をとるか。
信頼できる知人に相談したら、仕事を確保した上で今の自分に出来ることを考えた方がいいとのアドバイス。先ずは、仕事ありき。
全くもってその通り、それがこれからの我が家の未来の為の正論。
でも、でも・・・
夕方になって、やっと電気が回復した仙台の妹から固定電話に連絡がありました。
実家の事は今までも散々任せっぱなしだったけど、この非常時以降は、ますます妹の肩の荷を増やしてしまいます。
妹の意見を聞いてから、最終判断をしようと思っていました(月曜日中には派遣会社に就業確認の連絡をする為)。
妹の意見は、家族や知人と全く同じでした。
「お姉ちゃんも頑張れ~~」
被災者の妹が励ましてくれました。
これで、気持ちは固まりました。仕事しないと、帰省の旅費も捻出できないしね
あ、もう一社からのお誘いは丁重にお断りしないといけません。。。
不安な気持ちが無い、と言えば嘘になります。でも、前に進まないと。。。
決心が揺らぎませんように。
未曽有の大地震で、私の故郷 宮城県 は一変しました。
表情豊かな入り江が連なるリアス式海岸の三陸は、天災になす術もなく悲劇の場所となりました。
映像で観る変わり果てた故郷の様子に、ただただ涙を流すばかりです。
安否を心配していた両親・妹夫婦とも、無事であることが分かりホッとしています。
ライフラインが絶たれ、寒さと暗闇の中での不便な生活を強いられているかと思うと、暖かい部屋で温かい物を食べ、温かいお湯に浸かり、安全な布団で寝ることが出来る自分に、罪悪感すら感じます。
石巻の友達とは、いまだに連絡が取れていません。
避難所に居ることを心から願います。
福島原発の事故も他人ごとではありません。
宮城の女川原発では、中学の同級生でんちゃんが勤務しています。牡鹿半島の道路状況は全く情報がありませんが、不通になっているかもしれません。
自宅の被災の様子も気になりながら、不眠不休で電力の回復に向けて復旧活動をしていることでしょう。
近所の知人から転送以来のメールが来ました。
『関東東北地方の電力の供給を助けるべく、関西電力がその分を供給します。関西の方は節電にご協力ください』
チェーンメールが回線を圧迫しているという意見もありますが、横行しているのはガセで不安を煽るようなものばかり。関西地域での転送であれば、被災地の回線に迷惑は掛からないのでは・・・
勝手にそう判断し、関西在住の多くの方に送りました。
不愉快な方もいらっしゃったことと思います。この場を借りてお詫び申し上げます。
藁にも縋る。まさにそんな気持ちでした。
批判は甘んじて受けます。
しかし、メールの発信人の語る通り、私たちに出来ることは祈ることの他に、小さなことから生活を見直すこと。
対岸の火事、ではいられません。
過去の大地震の後も、何度も復興を遂げてきた人間の力を信じています。
先ずは、早急なるライフラインの回復を心から願います。
髪、切りました。
シャンプーした髪の毛の水分をしごこうと思っても、手の中に残る髪の毛は僅か。
ばっさり、さっぱり。
セミロングからばっさりショートになりました。
カラーはピンクゴールド。
ちらほらと白髪が見える程度なら、今まで通りのカラーで十分だそう。
今回は、三宮のカットスタジオではなく、依然通っていた近所の無口なスタイリストさんのいる美容院。
何年かぶりで、前髪も作りました。
帰宅すると、娘は驚いていました。
パーマもカラーも、普段は全く気が付かないオトーサンでさえ、今日の私の変容にはすぐ気が付いたようです。
『まるで別人』
だそうです
娘は 『ボーイッシュになったね』
春だし、心機一転!!
そういえば、ヨガの先生が仰ってたな~。髪の毛を切ると”気”が上がる、って
いいことありますように
我が家のお雛様。
中途半端に大きく、リビングボードにも乗らず、床に直置きです。床の間でもあれば、栄えるんでしょうが。。。
なかなか出す機会がなく、三年ぶりに出しました。
でも、やはり良いもんですね~~
今夜はちらし寿司ではなく、肉みそキャベ丼。
こってり肉みそにキャベツを混ぜ込みました。殆ど生に近い状態のキャベツの食感と甘みが、肉みそを引き立てて美味しかったです。
肉みそさえ作り置きしておけば、パパッと出来て楽ちん。
一日に高校の卒業式も無事終わりました。
やれやれ。これで子育てもほぼ終了。。。
大学生になっても自宅から通う娘は、今までと変わらないとは思うけど、一歩大人に近づいた分、自立心と責任感を持ってもらわなければなりません。
とはいっても、私の手からすっかり離れてしまうのも、また寂しい
卒業式のお祝いに買ってきたshinファクトリーのケーキ。
甘いのは苦手だけど、もうちょっと甘さがあってもいい感じ。
これは卒業記念の紅白まんじゅう。
大きい紅白まんじゅうがドン!としてるのを期待してました。食べやすいけど、昔ながらの紅白まんじゅうの方が、お祝いのインパクトが強いと思います。
お味は・・・?
明日食べてみようっと。
最近のコメント